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世の中、経験してみないと
わからないことだらけですね。

ナイスミドルへの道No.005

(作文)わたしとライオンズ

プロ野球に関する一番古い記憶は、おそらく1982年の日本シリーズ。
7歳、小学1年生のとき。
口ひげをはやした投手(高橋直樹)や田淵のことをなんとなく覚えている。
西武ライオンズが地元の球団で、この年初めて日本一になった、なんてことまで理解していたかどうかは覚えていないが、西武ライオンズはこの年から「黄金期」と呼ばれる時代に入る。

13年間でリーグ優勝11回(2連覇、4連覇、5連覇)に日本一8回。
毎年優勝していて、日本シリーズが毎年開催されるのが当たり前のことになっていた。
毎年10月は商店街や所沢駅周辺で優勝セールが開催されるので、野球に興味が無いような人たちもざわつき始める。
子ども達は日本シリーズのたびに西武球場の上にぽっかり乗っかる飛行船(空撮用と思われる)を探す。
小学生は日本シリーズ開催中の給食の時間、日本シリーズ中継を見ることが許された。
・・・・この頃、所沢では日本シリーズが年中行事の一つだった。

ライオンズのペットマークがついたバッグを持って通学する子どもたちの姿。
小学生以下の子どもは「西武ライオンズ友の会」に入ると帽子とバッグなどのグッズが貰えるうえライオンズ主催試合は無料で入場できたから、近隣の小学生は殆ど友の会会員であり、同じバッグを持って登校していた。
新聞屋さんからもらう招待券で家族で球場に行くと、同級生ともよく遭遇した。
土曜日や日曜日、西武球場でデーゲームが開催される日はどこで遊んでいても西武球場から打ち上がる花火の音が聞こえた。
「お、今日も西武が勝ったぞ」
夜に一発花火が上がれば、テレビ埼玉にチャンネルを合わせる。
「お、秋山の2ランだ」。
西武の選手がホームランを打つ度に打ち上がる花火と、西武が勝ったときに派手に打ち上がる花火は所沢名物だったのだ。
高校生になれば、バイトで売り子をしている同級生も見るようになった。
ライオンズと西武球場は、地元にはなくてはならない存在だったのだ。
今となってはすべてが良い思い出である。

しかしながら。
高校生になる頃には、私はライオンズが嫌いになっていた。
勝ってばかりでつまらない。
監督の仏頂面、選手達の余裕のある表情。
オールスターも殆どが西武の選手で占められる。
つまらなかった。

一塁側(当時の西武側)でなく三塁側応援席で応援している方が面白かった。
ロッテ、日ハム、ダイエー。
負けてばかりだったけど、たまに勝つのが希少性があって面白い。スター性のない地味な選手が西武の選手達を(たまに)打ちのめすのが痛快だった。
93年。
この年私は高校3年生だったけど、マジック1としながらも連敗トンネルに入りなかなか優勝できないライオンズの相手であるダイエーホークスをレフトスタンドで応援していた。
「地元で胴上げするためにそれまで連敗していた」と信じて駆けつけたファンの応援で青く染まるスタジアム。
そんな中でホークスが勝っってしまったのだから痛快である。
最下位のチームの応援団が「優勝できないライオンズ」コールを行っている横で肩を落として帰って行く西武ファン。
ざまぁみろと本気で思っていたものだった。
この年西武ライオンズはリーグ優勝こそしたものの、日本シリーズではヤクルトに敗れている。

明けて94年。
私は18年過ごした地元を離れた。
離れたと言っても茅ヶ崎だから大して離れてはいない。
にも関わらず、たまにテレビで見る西武球場は遠く感じた。どこか手の届かない世界になっているように感じる。
黄金期を支えた主力の衰えも感じるようになったし主力選手の秋山も放出され、生まれ変わろうとしているようにも見える。
どこか寂しさを感じるライオンズ。
94年は危なげなくリーグ5連覇を果たしたものの、日本シリーズでは長嶋巨人に敗れ、森監督は勇退、主力選手が流出・・・・。

・・・・この年、あの時から13年続いた黄金期がついに終わった。

95年、開幕から連敗に連敗を重ねる東尾ライオンズ。
テレビに映る西武球場を見る度に悲しくなる。
なぜここまで勝てないのか?
あの強いライオンズはいったいどうしてしまったのか?
そんな思いと同時に感じるのは「オレはいったいどうしてしまったのか?」という感情だ。
あんなに嫌いだったライオンズが負ける姿を見てなぜ悲しむのか。
当時20歳。若かった。わからないこともたくさんあった。

私は憎たらしいくらい強いライオンズのこと、憎たらしいと思いながらもずっと見ていた。
嫌いだといいながらずっと見ていたことに気がついた、20歳の夏。
こんな形の愛もあるのだと知った、20歳の夏。
以降私は「所沢出身のライオンズファン」を公言するようになり「物心ついたときから黄金期」「オレがいたから黄金期」などと言うようになる。

生活に余裕が出てき始めた2000年代になると、実家に帰るたび両親を誘って西武ドームに行くようになった。
「あんなに西武が嫌いだといっていたのに、なにがどうなってるの」なんて母によく言われたが「そんなことは言っていない」「言っていたのはオレじゃなく兄貴」「記憶違い」で押し通す。
「まったく今年のライオンズは情けない」なんて言いながらほろ酔い気分で観戦し、カブレラのホームランで酔いを覚ます。
・・・なんて楽しい時代があったかと思えば、親会社の不祥事、裏金問題、しまいにBクラス転落、観客動員数11位で毎試合閑古鳥なんてどん底もあった。
離れてしまったファンも多かっただろう。

ずっと見ているってことは、それだけいろいろな時代を見ているってことで、いろいろなことがあったものだ。
黄金期に入ってから、すべての時代を見てきた。

球場も変化してきた。
西武球場に壁がつき、屋根がつき、松坂資金でスタンドの大改修を行った。
今年は巨額の資金を投じた改修工事が完了し、ボールパーク化宣言をしたという。

しばらく前から西武ドームの前を毎日のように車で走っていたけど、最近ドームの前を通らない道を選択しているのはこっちの方が早いから、というだけではない。
ボールパークを横目で見るのはいいが、ボールパークを自分より先に見ている人を横目で見るのは面白くない。ムカムカする。
いくつになってもジェラシーだな。
まだ見たくない。却下。

初めてボールパークを見るのは・・・・4月8日の楽天戦の予定だ。
それまで待ってろよメットライフドーム。

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