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世の中、経験してみないと
わからないことだらけですね。

たのしいラグビー観戦No.081

トンガとのラグビー外交とチャリティーマッチ

JAPAN RUGBY CHARITY MATCH 2022
EMERGING BLOSSOMS vs TONGA SAMURAI XV

テヴィタ・スカ・マンギシ特命全権大使の挨拶中、日本とトンガの交流を「ラグビー外交」だと語っていました。
ノフォムリさんとポポイさんが大東文化大学にやって来てから40年。
日本のそろばんを縁に始まった小さな交流はいつのまにやら「外交」になっていました。
40年続くだけでも凄いことですが、徐々に大きくなっていき「外交」にまで発展させたのは本当に凄いことだと思います。

トンガ人留学生を受け入れていた大東文化大は1986年に学生日本一に輝きました。
同志社大の3連覇の後、覇権を争う伝統校の間に割って入り明治・早稲田を下しての日本一。
トンガ旋風。
世の中に「トンガ人留学生」の存在をしらしめたのはこの頃の大東文化大で、ラグビーを大して知らない人たちにも「大東大」「ラグビー」「トンガ人」というキーワードが広まり、「(シナリ)ラトゥ」「(ロペティ)オト」の名も世間に知れ渡っていました。
トンガという国がどこにあるかはわかならなくても多くの日本人がトンガという国名を知り、トンガ人は体が大きくラグビーが得意だと認知し始めました。
しかしその反面、特にラグビーファンの間で「ラグビーだけやりに来ているラグビー特待生」「トンガ人頼みの大東大」というレッテルも貼られていくようになったのもまた事実であり、この頃から90年代中盤にかけてはまだ黎明期だったのかも知れません。

90年代も終盤に入ってくるといろいろな大学がトンガ人留学生を受け入れるようになり、99年にはついに高校にも留学生が入学し旋風を巻き起こしました。
旋風を巻き起こしたのは埼工大深谷の「ホラニ」「オツコロ」の両名であり、花園に出場した埼工大深谷は大阪工大工・国学院久我山を下して決勝に進みます。
この頃はインターネットの黎明期であり(さくら組が出来たのもこの年です)、この頃流行っていた掲示板では高校への留学生の賛否が盛んに議論されていました。
賛否と言ってもその殆どが「あまりに留学生頼み」という否定派の書き込みであり、中にはかなり感情的な意見も見られました。
この空気が変わったのは決勝の後です。
東海大仰星の前に7-31で負けた後、先輩を肩に抱き涙にむせるホラニの姿に多くのラグビーファンが心を打たれました。
「同じチームでラグビーをしているのに日本人もトンガ人もないのではないか・・・」多くのラグビーファンたちが考えを変えていきました。
折しもこの年「平尾ジャパン」が多くの外国人(元オールブラックスのジェイミー・ジョセフが代表入りしたのもこの年)をジャパンに投入、主将をニュージーランド人のアンドリュー・マコーミックに任してワールドカップに出場しており、トンガ人と日本ラグビーはたまた外国人と日本ラグビーという考え方が変わってきた時期でした。
この頃が一番の転機だったと思います。

私も一ラグビーファンとして同じような考えでしたが、人間とは勝手なもので・・・・・。
翌2000年、日本大学にも転機が訪れました。
トンガ人留学生の受け入れを始めたのです。
この時、正直言って両手を挙げて歓迎・・・・とは思いませんでした。
当時のハリケーンズは「ヘラクレス軍団」と呼ばれており、当たり負けしない屈強な体が武器でした。
大きくはないけど強いFWが相手FWを吹っ飛ばしながらピック&ゴーを重ねて前進していくのがプレースタイル。
「もともとこういうスタイルなのに留学生が必要なのか?」「もし強くなったたトンガ人頼みとか言われてしまうのでは?」「そもそもこのチームになじめるのか?」なんて疑問を持ってしまうことがあり、どうも腑に落ちないといかモヤモヤしたものです。
そう考える度にホラニの姿を思い出し、考え直すのでした。
さて、この年入学した日大ラグビー部初のトンガ人留学生は「タウファ・トーエツ」くん。
初めて見た感想は・・・・・

「思っていたより小さい・・・・」

当時のハリケーンズの特徴に「大きくはないけど強いFW」と書きましたが、当時のハリケーンズは大きな選手が全然いなかったのです。
ロック不足であり、背の高い選手は皆ロックにされてしまいました(川松コーチもそうでした)。
「トンガ人留学生」と聞いて密かに期待していたのはマウやバツベイ(当時大東大にいた留学生)クラスのサイズだったのですが、トーエツは筋骨隆々とはしているものの身長は180センチ程度。
他のトンガ人留学生に比べると小さく、ハリケーンズの中でも特に大きい選手ではありませんでした。

「なぜこの子だったのだろう?」

正直思いました。
そのトーエツは1年目からレギュラーとして試合に出場。最初の頃こそチームにフィットさせることに悩んでいるようでしたが、次第にチームにフィットし始めハリケーンズに必要不可欠な選手となっていきました。
チームは選手権進出が当たり前の強豪から転落気味であり大人達が場外乱闘を繰り返し2年連続で監督が替わるという難しい時期でしたが、4年生の時に主将を任されるようになりました。
2004年のことです。
不祥事から監督交代、対外試合禁止の船出となりどうなることかと思いましたがリーグ戦開幕から東海大と流経大を撃破、選手権では慶應義塾大にあと一歩と迫るなど奮闘しました。
慶應大戦後、私の顔を知ってくれていたのか挨拶に来てくれました。グランドでチームメイトと涙を流している最中でしたが、こちらに駆け寄ってきて泣きながらありがとうございました、と伝えてくれました。
この姿を見て、改めて思いました。

「最初の留学生がこの子で良かった」

トーエツは数々のビッグヒット、ビッグゲインを見せてくれましたが、あの頃のトーエツの姿で私が一番印象に残っているのは2年生のときだったか、骨折して試合に出られなかったときに姿です。
寂しげな姿で、試合前の秩父宮では声を掛けられるのがイヤなのか南スタンドにポツンと座っていました。
あの姿を見て、すでにハリケーンズにはトーエツが不可欠なメンバーとなっていてトーエツも完全にチームの一員なんだと実感しました。
入学して2年も経つのだから当たり前の話なんですけど、当たり前のようで当たり前でない話だと思っています。強い信頼関係が生まれているのだと思いました。

あの転換期に日大が留学生の受け入れを開始し、最初の留学生がトーエツだったのは運命的な出来事です。
以来日大で多くの留学生が卒業していき、続々と入学してくるようになりました。
ハリケーンズに留学生がいることはもはや日常であり当たり前のことなっています。

日大も「ラグビー外交」に貢献できているのではないでしょうか。

昨日、2022年6月22日秩父宮で行われた「EMERGING BLOSSOMS vs TONGA SAMURAI XV」の試合は特別な試合でした。
歴史的な試合だと思います。
TONGA SAMURAI XVをノフォモリ団長、シナリ・ラトウ(ラトゥ ウィリアム志南利)監督で率いたことにも意味があると思います。
ラグビーがアマチュアスポーツでなくなった今、TONGA SAMURAI XVを選出するに当たっても様々な障壁があったと思いますが本当によく開催できたと思います。
この試合を実現するに当たって骨を折ってくれた皆さん、本当にお疲れ様でした。

一ラグビーファンとして、今後の日本とトンガの交流を支援して行ければと思います。

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