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関東大学リーグ戦・ライバルチームの紹介
ライバルとその愛すべき応援団

東海大学

リーグ戦の雄。1997年に二部落ちしており、この頃はまだ強豪校になる脈動はありませんでしたが・・・・(日本代表元HCのエディー・ジョーンズ氏が「日本で最初に指導したチームは基本も出来ておらず・・・・」というような話をしていたりしますが、そのチームこそ何を隠そうこの頃の東海大だったりします)。

その後は付属校の強化を含む地道な強化を続け、2000年に1部復帰。復帰当初は奮わなかったものの、着実に実力を付け、2007年にリーグ戦初優勝を果たすとリーグ戦の盟主となり、リーグ戦優勝10回を誇ります。

大学選手権でも3度決勝に進出し日本一まであと1トライまで迫ったこともあり、「打倒・東海大」はリーグ戦各チームの合い言葉です。

大学のサポートやコーチ陣の適切な指導はもちろん、留学生のマネジメント、付属校からのリクルートも機能しており、今後もしばらくはリーグ戦の中心にいると思われます。

流通経済大学

茨城県は龍ケ崎市に本拠を構える、大学スポーツ界の巨人。大学の母体は日本通運。

1997年に1部初昇格を果たすと、翌98年には前年日本一チームである関東学院大を破り、99年にリーグ戦2位・大学選手権出場を果たして瞬く間に強豪チームの仲間入りを果たしました。

その後は思うように実力を伸ばせず前評判倒れの年も続きましたが、2010年に大学選手権で初勝利を挙げると翌2011年にはリーグ戦を初制覇。以降3度の優勝を果たし2位にも5度入っていることから「東海大のライバル」と認知されています。

今では珍しくないニュージーランドからの留学生を最初に取り入れた大学でもあります。

法政大学

リーグ戦を創設した中心チームの一つ。

リーグ戦優勝13回を誇る古豪。リーグ戦創設期に日本一になるなどリーグ戦の盟主として気を吐きました。その後戦力が充実した92年に3度目の日本一になった後しばらくはリーグ戦主役の座をしばらく譲るものの、98年に久しぶりにリーグ戦優勝を果たすとその後は関東学院と共にリーグ戦の主役に君臨。

東海大・流通経済大の新勢力が実力を伸ばし始めると関東学院と共に再び低迷し始めてしまいますが、日本代表や神戸製鋼の中心選手であり92年に日本一を達成した時の中選手でもあった伊藤剛臣監督の下、上位進出を虎視眈々と狙っています。高速バックスによる展開ラグビーが伝統。

・・・・少々年を取った気もするが、口うるさい応援団もまだまだ健在です。

中央大学

リーグ戦を創設した中心チームの一つ。

昔から大学から手厚いサポートを受けているわけではないと思われるので、72年に1回優勝を記録しているのみではあるものの戦力が充実した年は上位に食い込んでくることもあり、また2部降格は一度もなく安定して結果を残しています。

日大にめっぽう強いのもの特徴であり、日大との実力差があった90年代後半~2000年代前半にも何度か煮え湯を飲まされました。

・・・・人数こそ少ないもののの応援団の応援はアツいですよ。

大東文化大学

リーグ戦の創設メンバーで70年代に一度リーグ戦制覇を果たしているものの、そのハイライトは80年代後半から。

今では一般的になった「トンガ人留学生」を初めて取り入れた大学であり、シナリ・ラトゥロペティ・オトの活躍で一気に大学ラグビーの主役に躍り出ました。

初めての日本一は86年で、大学選手権では準決勝・決勝と明治・早稲田を続けて撃破するという完璧な日本一でした。以来3度日本一の座を獲得しています

留学生が一般的になった今では強くなったり弱くなったり安定はしていないものの、重厚なラグビーは相変わらず。

・・・・応援団には1名「名物」がいらっしゃいます。大声で応援できる世の中になったら競技場で探してましょう。

関東学院大学

97年に初めて日本一を達成すると2006年まで10年連続で大学選手権決勝進出を果たし6度日本一に輝いています。まさしく黄金時代で、選手権で関東学院院に勝てるのは早稲田しかありませんでした。

部員数人の時代に監督に就任し、その後大学日本一まで導いた春口廣・元監督のサクセスストーリーが有名です。

が、2007年に部員が寮で大麻を育てていた事件が発生。その後は低迷、2012年まで1部で踏ん張るもののその後2部陥落。

以来1部昇格・2部降格を繰り返しているものの、黄金時代を支えた榎本淳平や立川剛士や黄金時代のメンバーがスタッフ入りして、名門復活を狙っています。

専修大学

リーグ戦を創設した中心チームの一つ。

リーグ戦で5度優勝するなど80年代まではリーグ戦の上位に付けていたものの、89年に優勝したのを境に低迷期に入ってしまい2002年に2部陥落。2015年に1部に復帰するまで長い長い期間を2部で時を過ごしました。

村田亙監督は89年に専修大が優勝した時の中心選手であり、東芝府中や日本代表で活躍して日本人で初めての海外プロ選手になった伝説的なプレーヤーで、専修大を1部復帰に導きました。

・・・・父母会の結束がとても高く、父母会による応援はリーグ戦随一です。

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